生きがいで悩んでいる老人は、切羽詰まった状況にいない。毎日生きていくためにパートやアルバイトをして生きていかねばならない老人たちがいる。彼らが生きがいで悩んでいる老人を見たならば、贅沢だと思うだろう。生きがいで悩む時間があれば、楽な生活が出来るからだ。
生きがいで悩むのであれば、自分より不幸な状況に置かれている高齢者を助けてみてはどうか!
ボランティア団体に所属して困っている高齢者を支援する活動をしろというのではない。困っている隣人がいるならば、自分が出来る範囲で助けになるような事を自発的にすると言う事だ。
自発的に自分が出来る事を見つけて自分よりも不幸な状況で生きている人たちを支援する。
良い事をした後は、誰もが良い気持ちになる。良い事とは?と考え込むよりも外に出て社会の問題を見つめ、自分が出来る事を捜す。どんなに小さな事でも良い。自分が出来る事で良い結果を導けるものが見つかれば、それをやる。それだけで良い気分を味わえる。
自分が衣食住の上で満たされていると感じる老人であれば、生きて行く事で問題が無い。
ただ、
精神的に何か物足りないと感じているならば、それは「生きがい」がないからだと思う。私自身の生きがいを考えてみると衣食住で問題を抱えていないが、生き続けるために必要なお金を稼ぎ続けなければならない。お金を稼ぐだけでなく、仕事をやり続ける事で普通の生活リズムを維持したいという気持ちである。
生きがいは、精神的な欲求だ。
明日の生活に困る老人にとっては、生きがいを考える前に明日の食卓を考える。その意味合いで生きがいで悩んでいる老人は贅沢な悩みを抱えているに過ぎない。
時々、お会いする老人の顔を見てこんな印象を受ける。「顔に張りがない!」何かが抜けている「もぬけの殻」のような顔をしている。何かに向かって生きている老人であれば、顔に張りがあり目に生気を感じる。老人には個人差がでる。生き生きと生活している老人であれば、それが自然と顔や体に出てくる。
私が所属しているNPO法人でアクティブに活動している老人たちは、顔に張りがありいつも忙しく動いている。生きがいがNPOでの仕事の中にあるからだ。平均70歳という高年齢であっても生きがいが持って働いている老人は、若々しい。そんな老人たちと付き合えば、そのエネルギーが自分たちに連鎖する。類は友を呼ぶだ!
老後の生活は、自分の生きがいをどこに求めるかで相当違ってくる。